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羽中田昌の今現在。天才が下半身不随になった理由は?経歴やプロフィールを調べました。

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サッカーは足でボール蹴り、ゴールを決め点数を競うスポーツ。

その足が使えなくなり将来が閉ざされた選手がいます。

羽中田昌。

 

彼の将来が閉ざされた理由は?

今は何をしているのかを調べました。

 

羽中田昌のプロフィール

参照:Yahoo!

名前 羽中田 昌(はちゅうだ まさし)
年齢 54歳 1964年7月19日
出身地 山梨県甲府市
出身校 甲府市立西中学校→山梨県立韮崎高校

少年時代

甲府市立春日小学校5年生の時に地元のサッカーチームに所属。
全日本少年サッカー大会に出場、小学6年時にも出場し2年連続で最優秀選手に選ばれる。

この時から鋭いドリブルを持ち味にする小学生がいると注目されていたという。

 

中学は地元の甲府市立西中学校に進学。
3年生時の全国中学校サッカー大会の予選であった大会で、ライバルの保坂孝が所属する韮崎東中学に敗れ全国出場は叶わなかった。

 

この頃からナショナルトレーニングセンターに呼ばれるなどで

周囲からは評価されていると実感する日々が続く。

当然のように

【いつかプロになり憧れのヨハン・ストライフのようにヨーロッパでサッカーをする】

と思うようになった。

 

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高校時代

参照:Yahoo!

 

順当にいけば、総合選抜によって甲府市内の高校に通うはずだった羽中田。

しかし実際は、中田英寿も卒業している韮崎高校への進学を決める。

これにはライバルの保坂の存在があった。

 

当時大型FWとして羽中田と共に将来を嘱望されていて、実は東京の名門帝京高校から誘いを受けていたのだ。

しかしサッカーの街として知られる韮崎の古豪、韮崎高校で羽中田とのプレーを望んだ保坂が、羽中田を誘い共に韮崎高校へ進学する。

もし断られた場合、保坂は帝京高校へ進学していたそうです。

 

入学後は1年から主力として試合に出場。

第59回全国高校サッカー選手権大会 ベスト4
第60回同大会 準優勝

などに貢献、優秀選手にも選ばれている。

 

一つ上の先輩、大柴と保坂ら2人を合わせてH20トリオとしてマスコミに注目されるようになる。

 

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しかし、思わぬ病気が羽中田を襲う。

高校選抜としてヨーロッパ遠征を控えた1982年3月。

腎臓病と診断されてしまう。

 

3か月の入院生活とサッカー禁止を医師に命じられるも

その年の12月には

1試合15分以上のプレーをしない

との条件付きで復帰が認められるまでになった。

 

ちなみにちなみに、キャプテン翼で心臓に病を抱える天才プレーヤーの三杉淳は彼がモデルだそうです。

参照:Yahoo!

 

羽中田が負傷して試合に万全で望めなかったのはこれが初めてではなかった。

1年時のインターハイは貧血になり、高校選手権では直前練習で足首を痛め、痛み止めを注射しながらの大会となった。
(後に骨折であったと判明)

2年時には同じく高校選手権本大会前の練習で股関節の剥離骨折と診断。
こちらも痛み止めを注射しての出場となっている。

 

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そんな不運を乗り越えての第61回全国高校サッカー選手権。
準決勝、決勝に出場。

特に決勝の清水東高には羽中田入学以来一度も勝てていない因縁の相手。

この時制限の15分より10分早い出場も迷いなくピッチに駆ける羽中田。

ドリブルで突破する姿に国立は大いに沸いたそうです。

参照:Yahoo!

 

結局試合には勝てなかったのだが

この試合を見たセルジオ越後は

病み上がりでもこれだけすごいんだから、完治したらどれだけのプレーを見せてくれるのか。わくわくしたよ】

と語っています。

 

参照:Yahoo!

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更なる悲劇

試合後から8か月。

友人の家にスクーターで向かっている最中に悲劇が襲う。

下り坂で突然、前輪がパンクしたのが。

 

大きな音と共に地面に激しく叩きつけられる羽中田。

意識が戻ると感じる違和感。

両足に力が入らない・・・。

 

病院に搬送後、脊髄損傷からくる下半身不随と診断されてしまい

二度とサッカーは出来なくなってしまう。

 

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もう一度サッカーを

天才と呼ばれた羽中田。

簡単にサッカーをあきらめられるはずがなかった。

様々な治療法を試し続け、中国の気功師を頼りもした。

 

気の済むまで治療をし尽くした羽中田はここで一区切り・・・とし

1990年6月、羽中田さんは妻となったまゆみさんとともに中国からの帰国を決断

やがて山梨県庁での仕事に没頭するようになる。

 

しかし1993年、羽中田の魂に火をつける出来事が。

Jリーグ開幕だ。

 

下半身不随の自分にできるのは、天才と呼ばれたその技術を後輩に伝えること。

指導者の道を選んだ。

 

 

参照:Yahoo!

当時バルセロナで監督をしていたのは、憧れのヨハン・ストライフ。

彼が指導するパスサッカーは羽中田が元々考える

サッカーの美しさ

そのものだった。

 

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帰国後は何をしている?

参照:Yahoo!

2000年に帰国後は解説者などをしながら暁星高校サッカー部のコーチとして指導に当たった。

2006年には身体障害者としては初めて日本サッカー協会・S級ライセンスを取得。

指導者としては

2002年-2006年 暁星高校サッカー部 コーチ
2008年-2009年 カマタマーレ讃岐 監督
2011年 山梨県立韮崎高校サッカー部 コーチ
2012年 奈良クラブ 監督
2015年-2017年 東京23フットボールクラブ 監督
2018年-同年9月 ブリオベッカ浦安 監督

などのチームを渡り歩いている。

 

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私の感想

下半身不随という悲劇に見舞われながらも、情熱は絶やさず

サッカーに向き合った羽中田さんには頭があがりません・・。

 

その他のエピソードなどは

6月30日 午後8時よりTBS【消えた天才】にて

詳しく放送されます。

 

 

 

以上、ありがとうございました。

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